2013.9.9
の続き
土曜午後に松山に入り、日曜の夜に阿波池田から岡山に戻る。9日(月)に岡山駅から備中高梁駅へ行き、そこから乗り合いタクシーで備中松山城を訪問。駅前の看板に「高梁観光百選」の紹介があったが、こんなに小さい町である・・もう少し絞り込んでも良いのでは。

備中松山城を訪問するには車でふいご峠まで行き、そこから20分の山登りが必要。運動不足の身としてはこれだけで膝ガクガク。
このふいご峠までの道のりもガードレールもまともになく、ほぼ1車線でうねうねカーブしまくりの恐ろしい山道で、そこを1BOXのタクシーが「次の予定があるから」と言いながら、豪快に飛ばしまくるというオマケ付きであった。
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備中松山城・・4つの峰からなる標高約480mの蛾牛山(がぎゅうざん)のうち、標高430mの小松山の山頂を中心に築かれた現存天守としては最も高い所に位置する山城である。
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山々に囲まれた高梁市街を一望できます。430mってこんなに高いのか?と思うほど見下ろすことが出来ます。
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天守は天和3年(1683年)、当時の藩主水谷勝宗によって大修復されたものと考えられ、城自体の歴史は相当古く、鎌倉時代までさかのぼるという。
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2層2階の小さな天守でした。
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1階の天井組。
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2階・・松江城の様な遊び心がある最上階ではなく、城の守護神が祀った御社壇(神棚)がありました。
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今まで訪問した天守の階段では最もデンジャラスな角度の階段。
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天守の北側に位置する二重櫓・・天然の岩盤の上に、石垣を築き建てられている。
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天守を見ながら一休み。今までの現存天守巡りのなかで一番疲れました。
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この備中松山藩・備中松山城が最も歴史上で注目されたのは幕末期であろう。幕末の藩主 板倉勝静は徳川慶喜を補佐、藩政では山田方谷を起用し藩政改革を成功させた。勝静は徳川慶喜に従って江戸へ向かい、戊辰戦争では箱館まで転戦する。
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慶応4年(1868年)、戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は藩主不在のなか、執政山田方谷の決断で無血開城する。
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この前は・・
この後は・・
まとめ:
この後、その山田方谷由来の『方谷駅』へ向かうことにした。
続く
山田 方谷・・残念ながら私の彼に対する認識は、司馬遼太郎が河井継之助についた書いた「峠」に出てくる偉人程度である。
その方谷駅・・伯備線開通当時(昭和3年) 当時は地名=駅名が原則であるところを、地元の方々が「方谷は人命でなく、地名である」と陳述を重ね、当時としては全国唯一の人命が付いた駅であったという。
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それほど郷土の方に愛されていたのであろう。駅前には方谷の居宅跡と長瀬塾跡の石碑が立っていた。
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待合室も素晴らしい。
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国道は高梁川を挟んだ対岸にあるため、駅周辺は潰れた商店と数軒の民家があるだけ。周りを山に囲まれ駅自体も秘境駅の雰囲気たっぷり。
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この長大なホームは特急の待ち合わせに使用されるため。_DSC2532
図書館で、山田方谷に関する本を借りて来ようと思う。
8日目に続く・・
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この旅の行程:タグは 山陰・四国とかの旅
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以上