2015.10.15
第五福竜丸展示館は夢の島公園内にあるのだが、新木場駅から歩くと公園が広くて地味に遠い。恥ずかしながら、私はつい最近まで第五福竜丸が展示されている博物館があるとは、全く知りませんでした。
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外観は船体をイメージしているのでしょうか?第五福竜丸は昭和29年(1954年)3月1日にビキニ環礁での水爆事故に巻き込まれたわけだが、詳細は各自調べていただきたい。
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第五福竜丸は戦後間もない1947 年に和歌山で建造された全長約30m・高さ15m・幅6mの木造船。当初はカツオ漁船として活躍していたが、その後はマグロ漁船→練習船→廃船という運命を辿る。
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マグロ漁船に改造されてからの実績は、第1次航海が1953年(昭和28年)6月、そして被爆したのが第5次航海の1954年(昭和29年)1月と、随分と短命に終わった船だったんですね。
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地元の方のコメントがこれまた辛辣である。
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1954年(昭和29年)のビキニ事件の後、白く塗り直され練習船に改造されて東京水産大学で使用、1967年(昭和42年)に廃船となった。そして夢の島に隣接する15号埋立地に放置されていたとのこと。この展示館の開館は1976年(昭和51年)6月のことである。
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その白い船体はボロボロ。
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舵も木造なんですね。そしてとても小さなスクリューが付いていました。
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こんな木造船でかなり遠洋まで出ていたことにまず驚いた。焼津から2週間程かけて日付変更線を越えてミッドウェーの方まで行っているではないか。そしてミッドウェーから良い漁場を求めて南下、マーシャル諸島に辿り着き、3月1日の水爆実験に巻き込まれる。
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一般乗組員の19名は長さ130㎝・幅45㎝の「カイコ棚」と呼ばれた2段ベットで寝たという。これは足を折りたたまないと寝られないな・・ちなみに水爆実験に巻き込まれた時は1月22日に出港・3月14日に帰港している。被爆したのは3月1日なので、焼津に帰港するまでの2週間を乗組員達はどんな心境・体調で過ごしていたのだろうか。
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3月16日付なので、帰港してから2日後の記事です。
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そして、3月1日の水爆実験によって被害を受けたのは第五福竜丸だけではなく、調査の結果12月末までに日本の船舶は856隻が被害を受けて、水揚げされたマグロ485トンが捨てられた。DSC_0417

ちなみに、アメリカとソ連だけでも何と1700回以上の核実験を行っている。周辺住民の方々にも相当な被害が出ているに違いない。「日本は唯一の被爆国」という表現は違うだろう。
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展示館前の広場には、第五福竜丸のエンジンが展示されていました。
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現地看板によると、昭和42年(1967年)の廃船後、エンジンは個人に買い取られ「第三千代川丸」に取り付けられたが、昭和43年(1968年)7月に三重県熊野灘で座礁・沈没してしまう。平成8年(1996年)12月に28年振りに海中から引き上げられ、平成12年(2000年)1月から展示館前の広場に展示されているのだそうだ。こんな事言ってはなんだが、船体もエンジンもとことんツキから見放された船である。
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そういえば人生で初めてモールス信号を打ちました。始めはもちろん SOS『・・・---・・・』である。
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ということで、雑多な文章になってしまいましたが、以上となります。