2019.3.29
 の続き
世の中、「宇和島と言えば宇和島城」派が2割以上を占めるのではないでしょうか。その他が1割、後の7割は宇和島には特に興味無しだと思います。

城の入口にあったのは「藩老桑折(こおり)氏武家長屋門」
城山東北側の登城口に位置する長屋門で、家老桑折家屋敷地に残されていたものを昭和27年桑折家より譲渡を受けて、現位置に移築したそうです。門の向こうのお金が戻ってくるタイプのロッカーにお金が残っていたので有りがたく再利用させていただきました。
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石垣は結構痛んでおりました。
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そして相変わらずチョコンと石垣に乗って居るような可愛らしい天守が見えてきました。
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この日の愛媛松山の最高気温は19度のポカポカ陽気で桜も見頃の始まりでした。
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今回の四国では結果的にここが一番良く咲いてました。癒されました
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個人的には現存12天守のなかで、このちょこんと天守だけ残っている宇和島城が一番好きです。
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宇和島伊達家2代宗利が寛文6(1666)年頃に再建したもので、万延元(1860)年と昭和35(1960)年に大修理を受けてます。
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ぐるっと裏側(南側)に回り込めます。
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天守の石垣の上から
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日本に12個しかない天守にしてはピンクの電話もあってとても軽い感じの受付でした。前回の訪問は早朝で天守の中に入れなかったので念願の天守です。
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これを見ると現存する建物は天守のみ。外郭は上から見ると不等辺5角形をしており、随所に築城の名手と言われた高虎ならではの工夫が見受けられるという。確かに不規則な5角形になってますね。
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確かに不規則な5角形になってますね。さすが高虎である。(知らないけど)
キャプチャ2
城の図
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慶長元~6(1596~1601)年の藤堂高虎創建時には大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張だったそうです。左の図を見ると築城当時は海城だったことが良く分かります。そして右の江戸時代末期の図を見るとかなり埋立が進んでいます。
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観光客も昨日訪れた高知城から比べると1/5くらいしかいなかったので、この急な階段の譲り合いもありませんでした。高知の坂本龍馬・山内一豊といった皆が知るビッグネームに比べたら宇和島の藤堂高虎・宇和島伊達家は少々マニアックか・・・
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高知の坂本龍馬・山内一豊といった皆が知るビッグネームに比べたら宇和島の藤堂高虎・宇和島伊達家は少々マニアックか・・・高知城と違って望楼型ではないので写真撮っても何だか地味です。
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北の方 宇和島駅方面はすぐそこまで山が迫っています。この山は標高70mくらいらしいですが、相当に眺めが良く、すこぶる気持ちが高まりました。でも冷静に考えると西新宿の高層ビル街が200m以上あるのでその半分以下なんですがね・・・
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こちらは南側 こっちもすぐそこまで山が迫っています。こりゃ海を埋め立てますわな。
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西側は海、高架の向こうに造船所が見えました。この辺りは埋立地ってことね。そういえば別に観光客がエサをあげている訳でもないのに天守の周りには何羽ものトンビが飛んでいました。
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続く
山の中腹の駐車場脇の桜も大変に見頃でございました。
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信号機みたいなすべり台がありました。
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これと似た様なすべり台を止別駅で見たぞ。

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これは工事車両用かな?
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そうそう2013年の時はこういう仮設の階段を登って天守閣まで行ったので結構疲れた記憶があります。
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こちらは登ってきた門と反対側にある門「上り立ち門(のぼりたちもん)」  現存する薬医門としては最大級であるだけでなく、創建年代が最古の慶長期まで遡る可能性を秘めた貴重な建造物ということです。
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こちらは宇和島城の東の交差点の所にあった小さな丸の内和霊神社です。
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終わり
   へ続く
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この旅の行程
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3日目






 
4日目







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以上