2017.7.9
この日は午前中は大湊と恐山に行ったので、午後になってから下北地方の木造校舎と大畑線の廃線跡を巡りました。予想以上に順調に回ることが出来まして、結果的に3.4時間で東通村の廃校5か所、むつ市の廃校1か所・現役1か所を回る事が出来ました。

話し的には ↓この日↓の続きです。






下北半島の東通村は南北40km・東西20kmに及び面積は約300k㎡とかなり大きいですが、 山林が62%・原野が17%と村の8割近くが山か野原であります。「この村は相当大きいな・・」と調べてみると、全国の市町村面積ランキングでは404位とそうでもなかったが、村では全国14番目の広さになります。

ということで訪問順にご紹介。
①袰部(ほろべ)小学校 明治41年7月に岩屋小学校袰部分教所設立、昭和28年4月に袰部小学校となる。
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と思ったら、昭和62年に袰部小学校から岩屋小学校袰部分校にランクダウン? そして平成元年3月に閉校となりました。
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一度は分校から昇格したのにまた生徒減少で分校に逆戻りってことでしょうか? ここは敷地内に小さな建物がたくさんあって、どこまでが校舎なのか良くわかりませんでした。
この辺りの経過にご興味ある方は、東通村の「村立小中学校の沿革」のPDFをご参照ください。余りにたくさんの学校の統廃合が出ているので、私は途中で何が何だか分からなくなりました。
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閉校してから30年近く、さすがに劣化が激しいですね。それから日差しが強すぎました・・・フィルター持って来れば良かった。
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②最初は小さいので公民館か保育園かと思っていたが・・
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正面のバス停に思いっきり「入口小学校前バス待合所」と書かれていました。
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明治26年に野牛小学校入口分校設置、同32年に入口尋常小学校となり、平成16年度の閉校時には44人ということです。44人?
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校庭は幼稚園の庭サイズだし、この小さな校舎に閉校時でも44人いたのでしょうか?それともここは旧々校舎なのでしょうか?どうみてもちょっと大きな公民館サイズです。
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ここで東通村の人口について調べてみると、大正末期~昭和初期が8,000人ほど、ピークの昭和30年代は12,000人ほどで直近は6,000人台にまで落ち込んでいます。産業別就業人口を見ると漁業→建設業→卸売・小売業→農業の順になっており、建設業が多いのは東電の発電所関係でしょうかね。

資料をみると、東通村には明治8年から大正時代にかけて20以上の小学校(分校含む)が設置されています。そして昭和45年には2709人もいた小中学校生は、平成23年には513人と激減していました。
そしてこの道が北海道みたいだったので思わず写真を撮りました。
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③鹿橋小学校の仮設のプレハブ?これしかありませんでした。どうやら昔はちゃんとした校舎もあった(今もどこかにあるのか?)様ですが、詳細は分かりませんでした。
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造りはいかにも校舎っぽいけど周辺環境が学校っぽくないし、工事現場の仮設事務所にしては大きいし・・と思っていると、入口に時計があったのでやっぱり学校だったんでしょう。
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この草ぼうぼうの広場は校庭だったのでしょうか・・・謎だらけ。
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④石持小学校・・明治32年5月蒲野沢小学校石持分校が独立し、石持尋常小学校となる。この小学校は道路からの入口は非常に狭いのだが、急にとても広い校庭が現れます。
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平成16年度の閉校記念碑。字が薄くなっていてあんまり分からず・・
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石持小学校が閉校した平成16年(2004年)度の児童数は17人。校舎はやたらに横長です。
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屋根に登るハシゴがぐいっと反っているのは無法者に登らせないため?
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これだけ横に長いと先生の移動も大変でしたでしょう。
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受け継ごう 未来へ。
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 に続く。